阪神淡路大震災から10年その思い出

1月17日 阪神淡路大震災から10年


上記は2005年1月16日、地元紙「神戸新聞」の記事です。(クリックで拡大)
1995年1月17日のあの大震災から10年。色んな特集記事が紙面を埋め尽くします。

上記写真、左が阪神高速道路神戸線の倒壊現場です。右が今現在の同じ位置(国道43号線)です。あの震災当日、わたしは神戸市中央区の山の斜面の病院。それも最上階に長期入院中でした。
三ノ宮の高台と言えば堅い岩盤の地層が続く所です。 あの日は入院から丁度、3ヶ月が経った時でした。

普段は夜になると「神戸100万ドルの夜景」が一望できます。関西国際空港から飛び立つ飛行機のライトまでが見えてまさしく絶景の場所でしたが・・

明け方、5時46分。どこからともなく「ゴォ〜!!」と言う音がして目が覚めたかと思うと、いきなりベットから30cm程、体が宙を舞いました。廊下や部屋では鏡や物が壊れる音が凄まじく。その浮いてる瞬間にベットに着いたらしっかり捕まらなくては。思った瞬間、そんな間もなくもう一度宙を舞おります。まさしく「直下型地震(縦揺れ)」です。2度目落ちた瞬間にバランスを崩してベット右側に上半身が落ちます。

思わず上半身をベッドサイドの床に手を付いてベットに起きあがろうとすると。 今度は普通の地震(横ゆれ)です。大部屋に居ましたので、今度は向かいのベットサイドにあるテレビが台車ごとこちらに猛スピードで向かって来ます。 瞬間「自分のテレビと、向かいのテレビに挟まれて潰される!」と瞬間的に上半身を起こしました。間一髪!手は挟みましたがテレビに体を挟まれる事は免れました。

ホッとした瞬間次に、ベッド上の袋戸棚い置いていた「Power Book」(ノートパソコン4.5Kg)が頭上に「ガァ〜ン!」脳震とうで一瞬気を失おります。しかし、窓ガラスが割れて飛んで来て手に突き刺さったので意識が瞬間に戻ります。パソコンの平たい部分が頭上に落ちましたが、もし「角」から落ちて頭に当たっていたら・・・{{{{(+_+)}}}}

意識が戻った次の瞬間、その落ちたパソコンが丁度、太ももの上に乗っていましたが。そこへ今度は天井のコンクリート破片が落ちてきます。「ガッシャ!」の音で気付きましたが何と。尖ったコンクリート片(30cm×20cmくらい)がノートパソコンに突き刺ささる格好で落ちてきました。{{{{(+_+)}}}}パソコンのお陰で足の負傷も免れます。

わずか30秒程の間でしたが・・・その後しぃ〜〜んと。静まり帰った病棟から鳴き声や、叫びが聞こえてきます。次の瞬間、最上階だったので屋上の貯水タンクの水が一挙に廊下に流れ込んで来ます。それから数十分。真っ暗な中、恐怖の時間が過ぎます。

これも16日の新聞の記事ですが。入院していたのが最上階ですから、震災直後の窓から見える光景は丁度、この写真そのものでした。 そして東の方を望んでも、西の方を望んでも遠くに、この写真と同じ様な光景が続くパノラマ状態。 恐怖の暗黒の時間が続きましたが、流石がそこは病院。 緊急用の発電機が働いて午前7時過ぎに電気が入ります。ぶつかって壊れたハズのテレビが電源も押してないのに写り出します。そしてヘリでの撮影から阪神高速道路の倒壊を放映していました。

病院は半壊もせずに残りましたが「コの字」形に建てられた建物でしたが、コの字の縦の部分「|」の部分が倒壊のおそれありで立ち入り禁止。最上階でしたから横向きの「ー」の部分と比べると10cm程前へ傾いているのが良く分かりました。

そして午前8時、病院の玄関に降りると病室や診察室に入りきれない血まみれの患者さんが、玄関ロビーに隙もなく収容され、まさに修羅場となっていました。翌日からは食事の配給も止まります。そこで病院から「急患が多いので、家が無事な方は一旦、帰宅して欲しい」 と要請がありました。私は震災から4日後、一旦帰宅する事になります。

ただ病院の規則としては入院と言うのは家に居ては危険が伴うので入院している訳であって、許可出来るのは「仮退院」か「試験外泊」です。よって、いつ復旧するか分からない現状で、長期での外出はいわゆる 「逃走扱い」(;^_^A まぁ、状況だけに特例と言う事で。いつかは分からないですが、病院が復旧の目処がたって招集が掛かった時に戻らなければ「逃走患者」として強制退院手続きになることの「承諾書」にサインをして帰ります。(結局は40日と言う歳月が掛かりました)

この当時はまだ携帯は誰しもが持っておりませんから公衆電話が殺到するだろうと先ずは自宅に電話します。家は幸い大した被害もなく一安心ですが、店の状況がわかりません。

数日後、「店、半壊」の知らせが入ります。潰れた商品300万。後から店の修復に300万の費用が必要となりました。

今後、震災で売り上げのダウンしか見込めない店に600万の融資を受けます。まだ入院加療は必要な身分・・まして退院後の3年以内の復帰は無理と言われている体で・・・今後どうなるのか?・・・ ケセラ〜♪セラ〜♪

あれから10年。体はすっかり元気になりました。もっとも一度の退院後の無理が祟って平成11年に脊髄を痛めてまた、7ヶ月の入院となります。 長期療養をされた経験のある方は分かると
思おりますが。長期療養が必要になると普通の生活に戻るのに数年が必要になります。私の場合、普通にゴルフくらい行けるようになったのは2004年の春(退院から8年目の春)でした。今でもこの時の600万は今の私に重くのしかかります。でも震災で体が不自由になった方や肉親を亡くされた方家が全壊した方、職を失った方などから比べれば「かすり傷」みたいな物です。だって無くした物など何もありませんから。

その後2000年に、オークションが行き詰まった店を救って呉れることなど想像もしておりません。

それから常に自分に言い聞かすのは「生きてこそ」とか「根性振り絞って」とか言った大層な心構えは消えました。病院と言う所に長く居ると。「人間って、このベット一つと、スペースが有れば生きていけるのだ」って事が身にしみます。 何の欲を出そうものか・・「目標は作らず。ただ生きて行くしか、しゃぁ〜ないやん!」 人間「食べて寝ることが出来れば、それが最大の幸福であろうと」それが身に沁みたものでした。生きていて「食べられない。眠れないは地獄です。」

でも、そこから今、普通の健常者として生活出来るまでに這い上がって来た経緯は、この「Cooの腕時計」に惜しみなくつぎ込まれます。 今、この震災10年目を向かえ初心に返る意味で掲載してみました。m(..)m

「震災10年」について、コラムのコラム(余談)

雑文一気読み次は「食堂のテレビ」へ。

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